「萎れていく花を見れば悲しいが、それは絶望を伴わない悲しみだ」と、ヘッセは言う。

朝から雨、その割りには暖かい。
 昨夜も9時にはベットに入ったが、なかなか寝付かれない。本箱から「ヘッセからの手紙」を取り出すと、こんな一節が目に留まった。
『私は死を嫌っていませんし、恐れてもいません。家族を除けば、誰との何とのつき合いが最も頻繁で親密であるのかと考えてみれば、それは死者たちばかりということになりましょう。あらゆる時代の死者たち、音楽家・詩人・画家たちです。彼等の本質は、その作品に凝縮されて今なお生き続けており、私には同じ時代を生きている殆どの人よりも、遥かに実在感あり現実的であるのです。それから、家族や若い頃の友人たちといった、私が自分の人生で出会い、愛し、「失った」死者たちについても同じことです。彼等は生きていた頃と同じように、今日でも私の人生の一部であり、私は彼等のことを考え、彼等のことを夢に見、日々の生活に組み入れています。
 ですから、死に対するこういった関係は、妄想でも愛らしい幻想でもなく、現実のもので、私の人生の一部なのです。
 私は確かに、萎れていく花を見るたびに感じる無常なものへの悲しみは知っています。けれどもそれは絶望を伴わない悲しみです』。
 死は別れでも断絶でもない。亡くなった妻は、彼女が生きていた頃と同じ、今日もボクの人生の一部であり、彼女を夢に見、毎日の生活の中に鮮明に生きています。もう会えない、話もできないという絶望の悲しみの中に、彼女は生きています。「ヘッセの手紙」を読めば、いつも珠玉のような一節に出会います。
 昨日、スイミングスクールから帰った正午過ぎ、ミシェールと昼の散歩に出掛ける時、家の前でセルフタイマーで撮った写真には、ミシェールと首のない男が写っている。

 家から500m程のところにある神社の前で撮った写真には、僕等二人が写っていた。

 こんな軽装でも寒くはない中秋の昼下がりでした。