79才にして女を恋ふる記(1)

 妻は平成1年1月、50で逝ってしまった。ボクは55で、以来今日まで24年間ずっと独りで暮らして来た。
 生まれた時から心臓に疾患があった妻は、急いで走るとか、階段を駆け上がるとかが出来ない人で、医者から心臓弁膜症と言われて成長したが、先天的に左心房と右心房の間の壁に孔があいていて、血液が一部、左心房から右心房へ逆流する「心房中隔欠損症」であった。
 「心房中隔欠損症」と診断されたのが、ボクが定年55才になって関連企業に転出すると決まってからのことで、専門医に診てもらうことを避けて来た妻が、「一度ちゃんとしたところで、診て貰いましょうか」と自ら言い出して、付属病院に検査入院して知らされた。自分の心臓に問題があることを長年にわたって自覚していた妻が、老後の安楽なクオリティ・オブ・ライフのために、その原因を知りたかったのだろうと思う。
 担当医の勧めもあって、心臓を止めて心房中隔の孔に蓋をする大手術を受けたが、どうしたことか2昼夜も経たないうちに集中治療室で絶命してしまった。「3週間もすれば退院できるでしょう」と聞かされていたボクは正に青天の霹靂、心の準備もなく途方に暮れたな。当時を思い出せば妻が不憫で、あの悲しみを忘れたいと努めて思い出さないようにして来た。
 ボクには双生児の息子がいる。妻が亡くなったときは二人とも学校を出て就職したばかり、子供たちが結婚するまでボクが母親代わりに面倒を見ると、転出先の斡旋も断わって慣れない手つきで家事をした。そのうち2年が経ち3年が経って、二人の息子はボクの足元から巣立って行った。
 芦屋のマンションに独り残されて、「さぁ、これからボクの人生を如何に生きるか」と、いくつかある選択肢の中から「もう親としての責任を果たしたし子供も独り立ちして行くだろうから、これからは『自分の夢を追い求める』」と決心した。
 ボクは若い頃から、日本と外国の間を行きつ戻りつして外国の文化を身に着けたい(外国文化を知るには、行きずりの旅行者では駄目。居を構え、そこで生活してこそ文化が分かると言う思い込みが、ボクにはあった)、日本に居る間はマンション暮らしではなく、静かな山間にログ・ハウスを建て、「好きな音楽を聴き」「読書三昧」の「独り暮しをする」と言う夢を温め続けて来た。矢折れ力尽きようとも我が夢を実現すると、2.3年は寝食を忘れて計画の具体化に没頭した。
 ボクは思い込むと、つーと走る出して止まらなくなる。日本の何処にログ・ハウスを建てるか、外国の何処に家を建てるか決めてから、今度はどんな家にするかという設計をしなければならなかった。今にして思えば「のめり込んで楽しい毎日だった」と言えるかもしれない。
 ボクは母の里である福井市で生まれた。生後2週間経った頃、父が体調を崩して出産のため里帰りしていた母は、乳飲み子のボクを抱えて父が単身で住む横浜へ帰らなければならなかった。ボクは小学5年まで横浜で育った。アメリカ軍の空襲を逃れて福井へ疎開、大学に入学するまで福井で過ごした7年間は、中学から高校卒業までボクの精神形成に大きな影響のあった、忘れられない青春期であった。
 余生を過ごす「終の棲家」は此処だと、福井の山林地を買い求め、俄か勉強で設計したログハウスを建てた。