「浅川邦夫」と言う男。

 ボクの高校生時代の同級生に「浅川邦夫」と言う男がいる。親しい同級生は一人減り二人減り「友人」と呼べる同級生は、とうとう彼一人になってしまった。
 彼は高校を出ると直ぐ上京して、開廊したばかりの「南画廊」に入って修業し、自ら銀座に「画廊春秋」を設立して、2003年そこを閉じるまで画商をしていた。その60年近くの間、蒐集した絵画・彫刻など700点余りを足利の市立美術館に寄託しているが、先日のこと、2012年11月10日〜12月24日、足利市立美術館で「淺川コレクションと1960〜80年代日本の美術」と題して開催した展示会の『パンフレット』と、そのときに刊行された『図鑑(画廊の系譜)』とを送って来てくれた。
   
   
 「画廊の系譜」とタイトルされた『図鑑』は、同封された手紙の添え書きには「わが半生は、この程度のものだな。殆ど道楽で送った半生だったからな」と柄にもなくへりくだっているが、700点を超える膨大なコレクションの中から90点ばかりが収録された、なかなか立派なものである。
 ボクは「日本の現代美術」の造詣に欠けるが、収録された作品は首を傾げるようなものもあって、彼は「蒐集は創造」であると言うけれど、ならば「玉石混淆の創造」と言うべきか。
 僕らの三国高校には「小野忠弘」と言う名の知れた美術の先生がいて、大いに薫陶を受けたものであったが、生徒皆が親しみを込めて「ボンクさん」と呼んだ小野先生は、海岸に打ち寄せられた漂流物やゴミの山に美を求めた人だった。淺川の玉石混淆のコレクションを見ていると、彼もガラクタの中に光る物を探し求めたのではないか、そんな気がしてならない。
 フットワークの衰えたボクが東京まで会いに行くなんてことはないので、2年に1回、近くの芦原温泉で開かれる同窓会で会うのが楽しみである。「来年8月には会えるな、それまで死なずにいろよ」。