あの悪夢から70年ー福井空襲(S20年7月20日)のこと。

 間もなく7月20日が来る。あの呪わしい福井空襲から70年である。
 今から4年前の2011年7月20日、『66年前の7月19日、福井空襲で1.600人が焼死。ボクは旧制中学の1年生だった』とタイトルしたブログを書いたが、ボクの拙いブログを読んだ何人かの方から、コメントを頂いたりメールで感想を寄せていただいたり、また話を聞きたいと我が家に訪ねて来られて以来、ずっと今日まで交流が続いて方もおられる。
 福井空襲から丁度70年になる機会に、重複をおそれず書き残したことや書き改めたいことなどを、稿を改めて書いてみることにした。
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 1945年(s20年)7月19日、120機の(数については諸説がある)アメリカの爆撃機・B21が福井市に来襲。記録によれば空爆は23時24分から0時45分に及び、投下した焼夷弾によって殆ど全市が灰塵と化し、1,600人を超える一般市民が焼死した。
 当時、旧制の県立福井工業学校(現在の福井県立科学技術高等学校の前身)に入学したばかりの13才のボクが目の当たりにした、阿鼻叫喚の光景は70年が経った今も脳裏に焼きついて、昨日のように鮮明に思い出す。ボクは一生忘れることはできないでしょう。
 ボクには思い出したくもない惨い辛い経験だが、戦争の悲惨さを一人でも多くの方に知ってもらいたい、そんな語り部の役割がボクに果たせるならと、再度ブログに書き留めることにした。
 その頃の日本は、主要都市にとどまらず地方都市までがアメリカ軍の空爆によって焼け野原にされ、戦況は日に日に悪化して戦争は最早末期の様相を呈していた。
 中学では二年生以上は全員が軍需工場に徴用され、学校には一年生しかいなかった。授業らしい授業は殆どなく、重くて肩に食い込む銃を担いで、前進と匍匐(ほふく)を繰り返す、軍事教練に明け暮れる毎日だった。
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 空襲に備えて、福井市内に在住する1年生の中から5人が選ばれて、毎晩交代で学校で泊まりをしなければならなかった。泊り込んで何をするかと言えば、空襲にでもなれば銃器庫に格納されている三八銃と言われていた銃を、地下壕に移動させるのである。「銃は『陛下』から、お預かりしているもの、焼失するようなことがあってはならない!」と、有事の折は地下に造られた倉庫に移動させるのである。当時の中学一年生は、今時の中学生と違って体躯も小さく碌なものを食ってないから力も弱く、ずっしりと重い三八銃をフラフラと担ぎながら、銃器庫から地下壕まで移動させる訓練を何度もやらされた。
 空襲の夜、ボクは泊まりの当番だった。宿直室で仲間5人と軍事教官が枕を並べて眠りに就いたのは、まだ9時前だったろうか。布団の中で上を見ながら、「天井の高い部屋だな」と思ったことを憶えている。
 突然の「空襲警報」のサイレンに起こされた。ゲートルを巻いて銃器庫に向かって走り出すと、もうB21の爆音が聞こえ、2,3挺の銃を運び出した頃には、ヒュルヒュルと焼夷弾が落下する音がしたかと思うと、その辺りがパーッと明るくなって、パチパチと物が燃える音が聞え始めた、それでもなお銃を運び出そうとするボクらを制止して、教官は「もういい。早く逃げろ」と言った。
 同級生と呼び合うこともなくボクは独り、校庭を通って校門の前の車の行き交う広い道を、北に向かって走り出した。北に2キロも行くと町並みが途切れ、やがて九頭竜川の堤防に達すると知っていたのだろうか。
 頭上にはヒュルヒュルと焼夷弾の落下する音が聞こえ、後ろからは燃え盛る炎が追いかけて来るような気がして、走りに走った。ヒュルヒュルが聞こえると、道路脇の未だ火のついてない家の庇の下に身を潜め、聞こえなくなると後ろも見ずに走った。
 5キロも走っただろうか道路は登りになって、「九頭竜川まで来たな、ここまで来たら大丈夫」と、初めて後ろを振り返り見た。福井市は紅蓮の炎を上げ、チカチカと明かりを点けたB29が、火の雨を降らせていた。
 堤防の叢に腰を下ろして、燃え盛る街の上に、尚も執拗に火の雨を降らせるキラキラと輝くB29の機影(燃え上がる炎の明るさで、勝ち誇ったように翼を左右に揺さぶりながら徘徊するB29の姿が見えるのだ)を茫然と眺めていた。敵機に向かう友軍機の姿の形もなく、2、3本のサーチライトが空しく赤い空をウロチョロするだけ。足羽山の上には高射砲が隠されていると実しやかに聞かされていたが、高射砲の発射音など一度も聞いたことはなかった。蹂躙されるがままの福井市の姿は、ボクには世の終わりを告げ知らせているようであった。
 叢の中で膝を抱えて2.3時間ほどウトウトとしたのだろうか、夜露に濡れて寒くなって眼が覚めた。4時を少し回った頃か空は少し白みかけ、福井市の上空には白い煙だけが立ち上っていた。
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 来た道を福井市内に向かって歩き出したが、行き交う人はなく京福電鉄(今の『えちぜん鉄道』)の踏切りのところまで来た。ここまで来ると焼け跡の余熱でそこいら一帯が暖かいのである。踏切りの側にある焼け残りのリヤカーの上で、ボクはまたウトウトとした。眼が覚めると道路を行き交う人の姿が見られたが、誰も無口で放心したようかのように歩く。
 道路に散乱する火照った瓦礫を避け、焼けて垂れ下がった電線を手で払い除けながら市の中心に向かって歩いて行くと、道路の上に奇妙な黒い塊がユラユラと揺れていた。何かと近寄って、よくよく見ると何と黒焦げになった人間であった。ボクは13才にして初めて人間の死体を見た。それも黒焦げになった死体である。ぎょっとして、暫くは立ち竦んでしまっていた。
 街の中央に進めば進むほど、あちこちに黒焦げの死体が転がり、疎水の中には大勢のモンペ姿の女性が、うつ伏せになって浮かんでいた。熱くて辛抱堪らず疎水の中に身を沈めたのだろうが、やがて疎水の水も熱湯になったに違いない。 
 黒焦げの死体を跨がないと通れないところがいくらもあって、その度にボクは「ごめんなさい、ごめんなさい」と言いながら、跨いで通った。コンクリートの建物以外は焼け落ちて、そこいらが平坦になってしまっているが道らしい形は残っていて、ボクは通学路である道の上を間違うことなく辿って歩けることが出来た。
 更に我が家に向かう道を進むと、国鉄京福電鉄とが並行して通る京福電鉄「新福井」駅の直ぐ側に踏切がある。単線の京福電鉄も終点に近いこの辺では複線で、だからこの踏み切りは広い。その踏切りを渡って十歩も行かないところで、ボクは生涯忘れられない地獄絵を目の当たりにした。
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 それは京福電鉄の線路の直ぐ側に沿った、狭い道路の上であった。
 母親と5.6才ぐらいの女の子が手を取り合って、立ったまんま焼け死んでいるのだ。髪も衣服も焼け落ちているが、真っ黒になって焼け死んでいるのではなく、左側に立っている母親は右側の子供の手を取って、二人とも大きな口を開けて、焦げ茶色になって死んでいた。
 灼熱地獄の中で、人間は立ったままで死ねるものだろうか。顔には苦悶の跡がくっきりと残っていて、二人とも大きな口を開けているのは、あらん限りの声を張り上げて「熱い!熱い!水を、水を下さい!」と、叫んでいたのだろうか。ボクはどんな思いで親子の横を通り抜けたか覚えがない。
 そこから家までは歩いて15分ほど、家らしき所に家はなく、そこいらを探していると近所の知り合いの人が「お父さんもお母さんも元気で、足羽川の堤防にいるよ」と知らせて下さった。堤防に上がると叢の中から父が目敏くボクを見つけて、「ここだ、ここだ」と手を振った。
 ボクは元気な両親と会えて嬉しい筈だが、ニコリともせず無表情で、言葉を発することのない子供になっていた。母が何だかんだと訊ねるのだが、ボクはダンマリの儘。父はボクをじっと見つめるばかりで何も聞かなかった。
焼け跡に建てたバラックに暫くいたが、だんだん寒くなって来て、母の知り合いの芦原町の「お屋敷の離れ」に移り住んだのは11月になってから。
 父の話では、ボクが言葉を発するようになったのは、芦原町に移り住んで2,3ヶ月もしてからのことだと。あの地獄のような福井を離れて漸く物が言えるようになったのだろうか、ボクには分からない。黒焦げになって道路に転がる死体や、疎水に浮かぶ死骸と、立ったまんま手を取り合って焼け死んでいた親子の姿は、13才のボクには今で言う大きなトラウマになっていたのだろう。
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 今、ボクは齢数えて82になる。芦屋から林の中のログハウスに移住して20年、健康にも恵まれて音楽を聴き読書三昧の毎日であるが、世のため人のためになることは何一つしていないことに気が付いて、戦争を知らない子供や若者に、戦争の悲惨さを語り継ぐ「語部(かたりべ)」としての役割が果たせないものかと、考える今日この頃である。