昨日「福井空襲の経験を聞きたい」と、取材を受けた。

 7月20日が来ると、丁度70年になる「福井空襲」のことを書いたボクのブログを読んで、「その時の空襲の経験を聞かせて欲しい」と、TV局の人がカメラマンと一緒に我が家にやって来られた。
 先ずは、泊まりをして空襲に遭遇した学校跡に行って見ることになった。小学6年の春、横浜から当時の旭国民学校(今の旭小学校)に転校して来たボクは、福井の街中のことは殆ど知らない。4月に入学し7月まで通った学校への通学路は今でも微かに覚えているが、学校が何処にあって其処が今は何と言うところか皆目分からないボクは、一人では行けそうにもない。
 流石ブンヤさん。ボクが通っていた(旧制)県立福井工業学校のことを前以って調べてあって、学校の遍歴とか、県立学校の跡地だから今は県の施設や広大な駐車場などに利用されているとか、校庭跡と思しきところに校歌の碑が建てられているなど、今浦島のボクが知らない情報を聞きながら、車で学校跡まで連れて行ってもらった。
 学校があったと思われるところは、丸っきり変貌していて「ここがそうですよ」と指差されても、ボクには「へェ」と言う感じでしかなかった。
 広い道路を折れると校門に至る狭い道に沿って、小さな疎水が流れていたが、今もそこに流れる疎水を見たとき、突如として70年前の記憶が甦えて来た。この辺に桜の木が並んでいて、その裏には木造二階建ての校舎があり、その校舎の裏手に運動場があってと、懐かしい学校が天然色で目の前に広がった。
 校門の辺りに建てられた「校歌の碑」を初めて見た。佐々木信綱の作詞とあるが、4月に入学して7月に学校が焼失するまでの間、校歌を歌った記憶はない。戦時下に入学式など行われなかったのではあるまいか。碑には校章が彫り込まれていたが、その校章の記憶もボクにはない。学帽ではなく校章のついた戦闘帽を被っていたが、校章の記憶もボクには欠落している。
 学校跡を離れて、いよいよ親子が手を繋いで立ったまま焼け死んでいた
踏切りに行くことになった。学校跡を探そうと思ったことは今日まで一度もないが、親子が焼け死んでいた踏切りだけは、どうしても通る気になれず、福井市に出掛けることがあっても、福井中央のメインストリートである踏切だけは通らず、ずっと迂回していたものである。その踏切りへ勇を鼓して出掛けた。
 周りの景観は大きく変っているが、踏切りは昔と変らず元の位置にあった。JRは高架になっているが「えちぜん電鉄」は平面交差のままで、踏切りは大きく立派になっていた。県庁の方から踏切りを渡って、直ぐに線路に沿って右折れする狭い道は、道幅は少し広くなっているが昔のようにそこにあった。
 親子が立ったまま死んでいたのは、その踏切りを渡って右折れした数m先のところで、あのとき人も車も通らない道の真ん中に立つ親子の姿に、ギクッとして釘付けになっていたが、昨日も同じように見えない筈の親子の姿が見えて、暫し立ち竦むのだった。
 昨日ボクは、70年振りに見えない筈の親子と再会した。