ボクは旧制の中学1年で敗戦を迎えた。

 ミシェールは2月になると満6才になる。人間なら壮年期か。

 

 教育勅語と軍事教練に塗れた中学1年のボクは、敗戦の数ヶ月後、カマボコ型の兵舎で再開された授業の、あまりの変貌振りに「あれっ」と驚いたものである。
 授業態度が悪いと言っては、誰かれなく往復ビンタを食らわせた同じ教師が、猫なで声で聞いた事もない「民主主義」を説くのである。「天皇」だの「陛下」などとは一言も言わない。国民の、国民による、国民のための「民主主義」こそが理想である、と臆面もなく言うのです。
 新聞もないラヂオもない砂漠のような世の中で、信じていた理想が価値が180度転換して、ボクの中に大人への不信が沸々と芽生え、日に日に肥大していった。
 高校2年の時には、共産党の細胞の一員として、グループで『資本論』を輪読し真っ赤な生徒会長になって、学校内を睥睨闊歩し教師を困らせた。
 大学では全学連。連日「安保反対、ヤンキー・ゴーホーム、自衛隊は要らない」と、学業そっちのけデモに明け暮れる毎日だった。
 やがて就職・結婚すれば、女房や子供に旨い飯を食わせたいと、お定まりの深く静かに沈殿して、「志も何処へやら」ぐじゃぐじゃになってしまった。
 ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を読んだのは、50も過ぎてから。
 硬直したイデオロギーの足場の上で「戦争とは何か」と問い詰めてきたが、「日本という国に生まれ育ち、戦争を経験した来たボクにとって、あの戦争は何だったか」という視座で、見つめ総括したことのなかったことを知らされた。
 ジョン・ダワーの新しい著作;"Cultures of War.Pearl Harbor/Hiroshima/9-11/Iraq"が、2週間もすれば我が家に届く。またボクの目の前のウロコが一枚落ちて、世の中が少しは見えて来るだろう。