『死者は死んではいない。われわれのうちで確かに生きているのだ』と、アランが言う。

 今朝トイレで腰掛けながら、アランが「幸福論」の中ほどで、そう言っているのを見た。
 此の間、TVで「トイレで新聞や本を読んでは痔に良くない」と言っていたが、イボ痔と10年来のお付き合いをしているボクには、そんなこと「糞っ喰らえ!」である。
 アランは言う。
 『ふつう人間が自分のことを、ほんとうに自分のことを真面目に考えることはまずないのだ。自分の目で見つめられた時、我々の存在はあまりに弱い、あまりに移り気だ。我々は自分に近すぎるのだ。すべてのものをそれぞれにふさわしく位置づけることのできるパースペクティヴを見つけるのは容易ではない。』
 さらに続く。
 『われわれは死者を彼らの真実の姿において見る。死者たちの助言の力はおそらくもっとも偉大な人間的事実であろうが、それは死者たちがもう存在していないことから出てきている。なぜなら、存在するとは、周囲の世界とぶつかり合い、それに応答することであるから。それはまた、自分で「こうある」と誓ったことを、1日に何度も忘れてしまうことであるから。だから、死者たちが何を欲しているかを自らに問うのはすごく意味のあることだ。』
そしてこう言う。
 『ほら、よく見たまえ、よく聴きたまえ。死者たちは生きようと欲しているのだ。君の中に生きようと欲しているのだ。君の生を通して、自分の欲したものがゆたかに展開されることを望んでいるのだ』と。
 少し引用が長くなったが、こうしてブログに書き写していると目で追って読んだだけのものが反芻されて、より鮮明に迫ってくる。
 亡くなって23年になる妻は、今なおボクの中で確かに生きている。ボクに話しかけ、助言をし、上手くやったら一緒になって喜んでくれるが、人に背を向け批判したりするボクを見て、自分の優しさがボクのなかで豊かになるよう願っている妻は、きっと悲しんでいるに違いない。50で亡くなった妻は、78にもなるボクよりずっと立派な人だった。
 溢れ出る自戒の涙が、ボクを浄化してはくれないだろう。
 妻を偲び、写真の『ヴィクトリア:死者のためのレクイエム(ハイペリオン盤)』を取り出した。ボクの座右にあるCDである。