犬は生き物です。ですから感情も意思も尊厳をも持っています(final)

 妻に先立たれ、子供も独立し、念願だった外国暮らしも断念して、じっくりと日本に独り住むと心決め、福井の杉林の中でミシェールと呼ぶボルゾイと暮らし始めて5年。
 僅か5年と言うべきか、もう5年も経ったというべきか、この間、犬という生き物と共存して、ボクはいろんなことを教わった。
 最初の1,2年は、何もかも違う動物が共生していくために必要な約束事を決めて、それを遵守し合うことを学習する時期だったと言えるかな。
 ミシェールには身に付けて欲しい躾を教えた。してはいけないこと、指示には従うことを、繰り返し教え続けた。そしてボクは、どんな天候であろうと体調に優れないときでも、食事・散歩・手入れなどの決めた時間を励行し、ミシェールの体内時計がボクの決めたタイム・スケジュールに合うように、自分の生活のリズムを崩すことはなかった。
 世の中には「躾教室」なるものが存在するそうな。そんなところに愛するものを預けるのか。仕事が忙しいので、あるいは親族の介護をしなければならないので、躾ける時間がないと言うのだろうか。そんな人、犬を飼わなきゃいい。犬と暮らす資格もない人。
 「時間がないから出来ない」と言い訳する人は、実は時間があっても、しなければならないことをしないもの。「よくまぁ、あの人、あんなこと出来る暇があるのね」と、ほんとうにやる気のある人は、周りから感嘆されるものである。やる気があれば出来る。やる気がない言い訳に、大方の人は「時間がない」と言う。
 「躾教室」で教わった通りやれば、「あなた、お利口ね」と褒めてやるのか。「あの人たちも通わせている、だから私も」と、そうしなきゃバスに乗り遅れるとでも思っているかな。
 親は「手塩に掛けて」子を育てるもの。手塩に掛けて大きくしてもらったアナタ!
 苦労して教えた躾を守る愛犬こそ、愛おしく思うものでしょうが。
 斯く言うボクは、どうしようもなく今と言う時代に取り残された、古色蒼然たる人間ですかね。
 次の1,2年は、言ってみればルンルンの時期。教えたことは大抵出来るようになり、人様からは「利口な犬ですね」、「手入れが行きとどいて、きれいなこと」などとと褒められ得意満面、「こいつと暮らして、ほんとに良かった」と思う頃。
 次は、4年目、5年目の段階。ボクは今、そのステージにいる。
 この時期を、どう名付けましょうか。お互いの感情が読み取れて、感情移入が出来る頃である。ボクは精神的なものを、「高い」とか「低い」とか、あるいは「深い」とは表現しないことにしているが、この頃になると、単に生理的ものではない、別次元の情報交換ができるようになったと思う。
 5年も向き合って暮らすと、人と犬との間に心が通じ合う。つまり以心伝心が立派に成立する。ボクの僅かな感情の揺らぎが、ミシェールに伝わるのである。伝わるのが怖いので感情を出来るだけ隠くそうとするが、不機嫌でいるとボクの仕草や言葉尻りに表れるのだろう、ミシェールの顔に曇りが見える。ボクのウキウキはどんなに隠していても、ミシェールにも伝わっている。
 ボクもミシェールの僅かな感情の動きを、表情から読み取ることが出来る。お互い微妙な表情の変化を読み合っている。コワイ位なものである。
 ボクはできるだけ話し掛けることにしているが、散歩の途中でも何時も何がしか話し掛けるボクを見て、部落の人は「犬は言ってることが分かるんですか」と訊ねる。
 哲学的な言葉が通じるわけもないが、人間が犬に分からせたいと思って発する言葉の大半は、繰り返えして聞かせるうちに、分かってくるものだと信じている。
 写真のように、ミシェールが机の前に横になっていると、ボクは机の前に腰掛けられない。

ミシェール、そこを退いて下さい」と言っても、知らん振りをしている。
「そこ退きなさい」と言えば、頭を持ち上げてボクの顔を見ている。
「退きなさいと、言ってるでしょ」と、ボルテージが上がると、起き上がって向うへ行く。 
 ボクの言ってる意味は分かっていて、語気から判断して行動する。感情を読むところなど、まるっきり人間と同じである。時にはボクの表情から感情を読み取る。
 駄目なものは駄目と教えなければならないが、教えるボクが随分長いこと駄目なことをして来たし、今もしている。
 だからミシェールの前では、ボクはいつも背筋を伸ばし、自らに正直でなければならない。グジャグジャなミシェールは困るなら、ボクがグジャグジャであってはならないのだ。
 この稿の最初に、「ミシェールからいろんなことを教わった」と書いたのはこのこと。ミシェールにボクが投影してると思えば、問われるのはボク自身のイキザマなのである。
 全ての生き物は尊厳を持っている。ボクは知らず知らずのうちに、ミシェールの持つ尊厳を傷付けてはいないだろうか。不用意な言動で、ミシェールに悲しい思いをさせたことはなかっただろうか。きっと、あったな何度もな。「ごめんよ、ミシェール!」。
 ミシェールと暮らした5年間は、ミシェールが成長するにつれ、ボクは年老いながら教えられる日々だった。これからも、きっとそうだと思う。