66年前の7月19日、福井空襲で1,600人が焼死。ボクは旧制中学1年だった。

 1945年(s20年)7月19日、120機からなる米軍機B29の空爆によって福井市は炎上し、1,600人もの武器を持たない一般市民が焼け死んだ。記録によれば、空襲は23時24分から0時45分に及び、大方が紙と木から出来た住宅は一面の灰燼と化した。
 当時、旧制中学に入学したばかりの、12才のボクが目の当たりにした空襲の阿鼻叫喚の光景は、66年が経った今も脳裏に刻み込まれて、昨日のことのように鮮明に思い出す。ボクは一生忘れることは出来ないでしょう。
 ボクにとっては思い出したくない辛い経験だが、一人でも多くの方に戦争の悲惨さを理解していただきたいと、ブログに書き留めることにしました。
 
 当時は日本の主要都市だけでなく地方都市までが、空襲によって焼け野原にされ、戦況は日に日に悪化し、戦争はもはや末期の様子を呈していた。中学では2年生以上は軍需工場に学徒動員され、学校にいるのは1年生だけ。授業などなく、軍事教練のみに明け暮れる毎日だった。
 空襲の当夜、福井市内に在住する1年生の中から5人が選ばれて、学校に泊り込むことになった。何をするかと言えば、兵器庫に格納されている銃(38銃)を、空襲になれば防空壕に収容することであった。
 「銃は、陛下からお預かりしたもの。決して粗末にしてはならない、空襲で焼失するようなことがあってはならない」と、当時の中学1年は、体も小さく碌な物を食ってないから体力もなく、38銃は肩にずっしりと重くて、フラフラと担ぎながら銃器庫から防空壕まで運ぶ訓練をやらされた。
 天井の高い宿直室で、5人の生徒と軍事教官が枕を並べて眠りに就いたのは、まだ9時にはなっていなかった。
 突然の「空襲警報」のサイレンに起こされた。着替えて武器庫に走り出すと、もうすでに爆音が聞こえ、2,3挺を運び出した頃には、ヒュルヒュルと焼夷弾の落ちてくる音がしたかと思うと、その辺がパーッと明るくなって、パチパチと物が焼ける音がし始めた。
 それでも尚も銃を運び出そうとする僕らを、軍事教官は制止して「もういい。早く逃げろ!」と言った。

 同級生を呼び合う暇もなく、てんでばらばらになって校庭から外に出て、校門の前の自動車が行き交う広い道路を、北に向かって走り出した。学校の北側2キロほど先では、町並が途切れることを知っていたのだろうか。
 走るボクの後から、焼け落ちる家の焔が追いかけてくるような気がして、頭上でヒュルヒュルと焼夷弾の音がする度に、通りの家の庇の陰に身を寄せながら、懸命に走りに走った。
 5キロほど走ると堤防の登りになって、「九頭竜川(くずりゅうがわ、福井県最大の大河)まで来たな。ここまで来れば大丈夫」と、はじめて後ろを振り返ると、燃え盛る福井市の空の上で、チカチカと照明をつけたB29が、火の雨を降らせていた。
 堤防の叢に腰を下ろして、紅蓮の焔を上げる街と、なお執拗に火の雨を降らせるキラキラと輝く機影(燃え上がる焔の明るさで、勝ち誇ったように翼を左右に揺さぶりながら、徘徊するB29の姿が見えるのだ)を、ただ茫然と眺めていた。
 敵機に向かう日本の飛行機の影も形もなく、2,3本のサーチライトが空しく赤い空をウロチョロするだけ。足羽山には高射砲が隠されていると、実しやかに聞かされていたが、高射砲の発射音など一度も聞くことはなかった。
 蹂躙されるがままの福井市の姿が、ボクにはこの世の終わりを告げているように思えるのだった。

 叢の中で膝を抱えて2,3時間はウトウトしたのか、朝露に濡れ寒くなって目が覚めた。そんな頃の中学生が時計を持っているわけがなく4時頃だろうか、夜は白々と明け、福井市上空には白い煙だけが立ち上っていた。
 来た道を市内に向かって歩き出したが、出会う人はなく、電車の軌道近くまで来ると焼け跡の余熱で暖かいのだ。道端の焼け残ったリヤカーの上で、またウトウトした。目を覚ますと行き交う人の姿が見られたが、誰も無口で放心したかのよう歩く。
 まだ火照っている瓦礫を避けながら行くと、道の真ん中に黒い奇妙なものが二つ、風に揺ら揺らしながら転がっていた。近寄ってみると、何とそれは黒焦げになった人間である。
 ボクは12才にして初めて人間の死体を見た。暫し息をのみ立ち尽くす経験だった。
 市内に進めば進むほど、焼け焦げた死体が転がり、疎水の中にはモンペ姿の女性が何人も、うつぶせになって浮いていた。
 死体を跨いで通らなければならないところが幾らもあって、その都度ボクは「御免なさい」と言葉をかけたが、死体を跨ぐなんてことが申し訳なくて仕方がなかった。
 さらに我が家に向かう道を進むと、国鉄と私鉄とが並行して走る軌道を渡る、大きな踏切がある。その焼け爛れた踏切を通り過ぎたところで、ボクは一生忘れられない凄惨な光景を見た。

 踏み切りの少し手前で、5、6才の女の子としっかり手を取り合った親子が、立ったまま焼け死んでいるのだ。衣服も髪も焼け落ちているが、こげ茶に変色した顔には苦悶の表情が見られ、親子は揃って大きな口を開けていた。
 その大きく開けた口は、あらん限りの声で「熱い!助けて!水を!水を!」と叫んでいたのか!?。
 人間は、立ったままで、手を取り合ったままで、灼熱地獄の中で焼け死ねるのか!?

 66年が経つ今でも、この光景は昨日のことのよう。ボクはこれから更に年老いて、何もかも忘却の彼方に置き忘れるでしょうが、この親子の姿を忘れることだけはないでしょう。

 広島では14万人が、長崎では7万人が焼死し、全国で空襲で死んだ人は30万と数えられています。これら全ての人は、銃を持ってアメリカ兵と戦った兵士ではなく、罪なき一般人でした。

 地球上に戦争がなくなり平和が訪れる日は、本当に来るのでしょうか。