空襲の3年後、福井市はM7.1の大地震に見舞われた。

 昨日今日と大分涼しくて、しのぎ良い。結構なことって続かないもんで、直ぐに暑さはぶり返すそうな。
 昭和20年7月の空襲で「焼け野原」になった福井市は、バラック住宅による復興が始まった3年後の23年6月23日、坂井郡丸岡町付近を震源とする直下型地震により、福井市坂井郡一帯にかけて死者3,200人を超え、家屋の全半壊46,000に達する大地震に見舞われた。
 当時、空襲で福井市を焼け出されたボクらは、母の縁者を頼って芦原温泉の街中に住んでいた。発生は16時28分と記録されているが、そのとき中学3年だったボクは友人宅でヘボ将棋を指していた、
 突然グラグラッと来て、ガラス戸がガタガタと鳴り出した。それでも崩れた将棋盤の駒を並び替えようとしていたが、揺れは一層激しくなって「逃げよう」と言う友の声に、僕らは中庭に飛び出した。
 家と家との間の細い路地を、揺れのため立ってられないので四つん這いになりながら、通り抜けようとしたけれど、何かがボクの上にドサッと倒れて来た。
 黄色い砂埃が舞い上がり一瞬真っ暗になったが、上に押しのけると割と簡単に持ち上がる。何とかその下を潜り抜け、見れば倒れて来たのは土塀だった。家が倒れる反対側に土塀の一部が倒れ、ボクはその下敷きになっていたのだ。ラッキーと言うしかなかった。
 我が家は二階だけが残って、一階はその下で崩壊していた。家の前で茫然としていた父が、何かでボクの全身を払うと、もうもうと黄色い砂埃が立ち上った。恐らくボクは埃まみれになって、目だけがギョロギョロする埴生のようになっていたのだろう。

 余震の続く中で、残った2階で寝泊りした。「余震が続き、倒壊するか惧れがあるので、そこから外に出るように」という人の忠告に、「本震より大きい余震はない」と、父は頑として残った二階から出ようとしなかった。父が何処でそんな知識を得たのかボクには分からない。
 
 「よくぞ、命があったものだ」と思う地震だったが、あの空襲で「手を取り合って、立ったまま焼け死んでいた親子」を知っているボクには、さほどショックでもなく、地震後の困窮した生活を辛いと思った記憶もない。
 
 「あの親子の苦しみに比べれば、この程度のこと、どうと言うことはないじゃないか」と思えるのです。
 
 妻は平成1年1月に亡くなりました。最愛のものを失くして、悲しくないと言えばウソになります。本当に悲しいです。妻を思って、どれほど涙を流したでしょう。
 でも、あの親子の悲しみや苦しみと比べれば、乗り越えられない筈がないじゃないかと自らに言い聞かせて、怯むことなく今日まで生きて来ました。
 
 何をやろうとも失敗を懼れることはない。あの親子の苦しみに比べれば、ボクの失敗の苦しみなんて、取るに足らないもの。駄目なら再チャレンジすりゃ良いだけのことと、ボクは勇気を貰いました。 

 そして「あの親子」は、ボクの反戦思想の核になっています。