読書と音楽とコーヒーがなければ、ボクは孤独と対峙して生きるなんて出来ないだろうな。

 この夏も金曜あたりを境に、幾分涼しくなると言うが本当だろうか。
 ブロブにコメントを頂く方と、少しコーヒー談義をしたが、学生下宿でコーヒーを飲むことを覚えて以来、57,8年の長いコーヒーとの遍歴を、この際思い巡らしてみるも良しかと、思い立った。
 読書と音楽との付き合いは、中学・高校の頃に遡りコーヒーを知るより古い。いずれかの機会に書いてみたいが、きっと楽しいボクの青春譜になるだろう。
 ボクが予備校生として転がり込んだ下宿には、京大、京都医大、同大、立命館大の8人がいた。
 京都の古いお屋敷の2階には幾つも部屋があって、6畳に2人が相部屋、予備校生のボクだけが、6畳を一人で占拠していた。今にして思えば、下宿のご厚意だったのだろうな。昭和27年頃の京都は学生の街で、「学生はん、ようおこし」と、学生は温かく迎え入れられた。
 ボクはそこで「全学連」の薫陶を受け、「君、勉強なんてしなくていいんだよ」と現役で京大に入った先輩から言われれば、すっかりその気になって受験勉強は殆どせず、連日連夜デモに明け暮れた。
 夜が遅いので朝は10時起床、最年長の京都医大生の部屋に集まって、コーヒーを頂くのである。皆が金を出しあって、金を免除されたボクは、四条河原町のコーヒー専門店に、先輩の書いた「モカ何グラム、ブラジル何グラム」のメモを持って、買いにやらされた。
 コーヒーミルは今時のハンドルを水平に回すタイプではなく、カキ氷のようにハンドルは垂直に回る鋳物製の重厚なやつ。アルコールランプで温め、時間をかけてサイフォンの中をコーヒーが上がり下がりして出来上がる。
 8人もいるので、1回に頂くコーヒーはカップ半分ずつで、それを2回頂くことになる。
ミールするのも、サイフォンで淹れるのも、その先輩一人でする。誰も手伝う者がない、のは誰にも触らせなかったのだろうか。
 皆、車座になってサイフォンを取り囲んで固唾を呑んでいる。そして先輩のコーヒー講釈が始まる。「今日のコーヒーは何と何のブレンドで、コク良く香り良く、誰もが好む万人向きのコーヒーだな」と、言う具合である。
 ボクは最初の頃、平素は口角泡を飛ばして議論する連中が、神妙な顔をしてコーヒーを飲むので噴出しそうになったが、ここでコーヒーを飲むようになってからというもの、喫茶店で高い金を払って飲むコーヒーが、何とも不味くて「飲めるものではないな」と思うようになった。
 ボクは学生の頃、下宿で優れた先輩と同宿してホンマもののコーヒーを覚えたと、今尚感謝している。
 就職して単身暮らしをしている時も、インスタントを他所で頂くことはあっても、コーヒーは何時も自家製だった。
 サイフォンも使った。布製のドリップも(紙ドリップなんて昔はなかった)、豆と水を容器に入れさえすれば、自動的にミールし湯が出て来て、カップにコーヒーが注がれる機械仕掛けのものも使った。そしてそれらの間を、何度も行きつ戻りつしたものである。
 結婚してからも、コーヒーだけは自分で淹れた。妻は忙しいから、どうしてもガーツと淹れる。「コーヒーは、もっと時間をかけて淹れるもんだ」と言うと、「自分で淹れなさいよ」と言われたもんだ。
 今は写真のように、手回しのザッセン・ハウスでミールしている。
 
電動式のミールは、どうも味気なく、手回しのミールでガリガリと、砕けていくコーヒーの薫りを楽しみながらやる。
 お湯は湯沸しで沸かしたものを、細い鶴首のコーヒーポットに移し変えて、少しずつ垂らすようにして注ぐ。
 『コーヒーを淹れる』それはボクにとって、ある種の儀式である。心静かにしてたっぷりと時間を掛けて、部屋中に広がる薫りに包まれながら、コーヒーの周辺に過ぎ行く時間を楽しむのである。
 一度に毎食後・食間の2回分を淹れる。だからボクには日に3回の儀式がある。
 人が何と言おうがボクには法悦のヒトトキである。