「老人には何の価値もないなどということを、思い込まされるのは真っ平である」と、ヘッセが言います。

 6時に目を覚ますと雨音がしない。「雨時々曇り」という天気予報のとおり今は曇りの時間帯かと、起きるなりミシェールを連れてウォーキングに出る。いつもの折り返し点に来ると、ぱらっと雨が降って急いで帰る。
 トーストに林檎と牛乳の定番の朝食を済ました頃、激しい雨音を立てて降り出した。エアコンする程の寒さではないが、今朝は数日来の暖かさはなく膝掛けに電気を入れる。
フォーレピアノ五重奏曲」を掛けたが、雨音に消されて聴こえてこない。曲の途中で断念して「ヘッセ」を取り出した。
 ぱっと広げたページにボクの好きな一節を見つけた。
 「情熱は美しいものである」と。
 「若い人には、情熱がとてもよく似合うことが多い」とも。
 そして言います。
 「年配の人には、ユーモアが、微笑が、深刻に考えないことが、世界をひとつの絵に変えることが、ものごとをまるで儚い夕雲の戯れであるかのように眺めることが、はるかにずっとふさわしい」と。
 ボクはユーモアを失くし、微笑を忘れ、ものごとを深刻に考えてはないかと自問すれば、そんな日々を毎日送っているではないか。
 ヘッセは、さらに続けます。
 「年を取ると言うことは、たしかに体力が衰えゆくことであり、生気を失ってゆくことであるけれど、それだけではない」と。
 「生涯のそれぞれの段階がそうであるように、その固有の価値を、その固有の魅力を、その固有の知恵を、その固有の悲しみを持つ」と言います。
 だから
「老人には何の価値もないなどということを、思い込まされるのは真っ平ごめんである」と。
 大いにナットクです。こんなボクでも通り過ぎた生涯の段階を経て、ボク固有の価値・魅力・知恵を、身に着けて来ましたとも。
 こんな風に勇気をもらって時計を見ると、2時を少し回ったところ。嬉しいことに陽が差して来た。「これまた、出掛けるチャンス」と、カメラを提げてミシェールと昼の散歩に出て、集落の風景や周りの紅葉を撮った。

 家の真向かいの山裾に、背の低い木々が紅葉している。

 庭の楓も紅葉真っ盛りではないか。デッキの上でミシェールが蹲って、カメラを構えるボクを見つめている。