ヘッセは言います「老齢になると多くの苦痛に見舞われるけれど、いろいろな賜り物にも恵まれる」と。

 朝食後、一息入れていると電気の検針に人が来た。デッキの檻の僅かな間から指を入れて、ミシェールの鼻先を撫でながら「あなたは何時も静かですね」と話し掛けて帰って行った。検針に行く先々で、いつもキャンキャンと吠えられるのだろうな。
 その人が帰ったと思うと、今度は1ヵ月に1回のダスキンの交換に馴染みの女性がやって来た。ボクは交換の日が来ると、前以て使い古しのダスキンを、ガレージ横のレター・ボックスの上に出して置く。ボクが不在の時には、彼女は新しいものを勝手口の横に置いて帰るが、今日はボクがガレージまで行って交換した。
 「スイミング教室に週2回通ってるよ」と言うと、目を丸くして「どんな効果があります?」と訊くから、「始めの頃は何も感得しなかったけれど、10回目が終わって、ジェット水流を浴び、水中を歩いたり跳ねたりして、体が軽くなり便通も良くなったように思うよ」と言うと、「それはいいですね」と感心していた。
 "Hesse:Hymn to Old Age"の中の短い詩(WATCHING AND LISTENING)に見つけた。
   "Yesterday seems far from me
    The long-gone past is near."
 日本語にする必要もないが
   『私には昨日は遥か彼方のようであり
    遠い過去が直ぐ近くにある』。
 正にそうです。ボクは今、昨日のことを忘れているのに、遠い昔のことを鮮明に憶えているのです。
 ヘッセは別のところ(『人は成熟するにつれて若くなる』)で、こう言います。
  『老齢になると多くの苦痛に見舞われるけれど、いろいろな賜り物にも恵まれる。その賜りものの一つが、忘却であり、疲労であり、諦めである。これは老人と老人の悩みや苦しみとの間に形成される、保護皮膜とも言うべきものである。 
 それは怠惰、硬化、醜い無関心という形をとる場合もある。しかしそれは、ちょっと別の観点から光を当ててみると、平静であり、忍耐であり、ユーモアであり、高い叡智であることもあるのだ。』
 「ボクは老齢になって、どんな高い叡智に恵まれているか」と自問すると返事に窮するが、ヘッセは助け舟を出してくれます。
 『老境に至って、はじめて人は美しいものが稀であることを知り、工場と大砲の間にも花が咲いたり、新聞と相場表の間にもまだ詩が生きていたりすれば、それがどんな奇跡であるかを知るようになる。』
 ボクも年老いて、コレに近いことを知るようになったな。
 「このボクも高い叡智を身に着けたのかな!?」