「NHKさん、こんなクラシックファンの嘆きを聞き給え」(1)

 大雪の予報の割には、昨夜来の雪は10時現在25cm程度だが、今はさらさらの乾雪が降り続いている。明日はスイミング教室に行くが、ガレージから車が出せればいいがな。
 ボクはTVを殆ど観ないので、音楽好きのボクはFMの音楽番組を聴く為にだけ、高いNHKの料金を払っているようなものである。
 そのボクには高くつく音楽番組の中で、どうしても聞く気にならない嫌なものがある。
 先ずは、『N響の演奏を聞かせる番組』。何時も山田某なる女性アナウンサーが出て来る。このアナが1時間少しの番組の中で、「生放送でお送りしています。生放送で、生放送で」と、『生放送』を5,6回は繰り返すのである。
 昔は、「同時放送」あるいは「同時中継」と言っていたと記憶しているが、これを何時の間にか「生で放送する」「生でお送りします」と言うようになり、「生」と言うボキャブラリーが、お茶の間で聞くTVやラジオの放送用語として市民権を得たようである。
 しかし本来、「なま」と言葉が持つイメージは品のいいものでなかった筈。「え?本当に、これをナマで食べるのですか」と言わなかった?
 火の通ってない、加工されてないものを「ナマ」と言って、「ナマで食べられるほど、新鮮なもの」、言い換えれば「新鮮でないものは、口に入れなかった」のである。
 「ナマ」には、「生臭い」「生々しい」と言う、人間が忌み嫌うイメージが常に付き纏っていた。それを今や放送で平気に「ナマ」「ナマ」と言うのである。 
 スポーツ中継を『生放送しています』は、「我らの代表が、このリアルタイムに頑張っているのか!」と、声援の一つも送ろうかと言う気にさせるが、演奏会を「ナマだ」「ナマだ」と言うメリットが何処にある?この音楽番組を編成する者や、「生放送で」を連呼する女性アナウンサーには「ナマ」と言う言葉に対する感性が、完全に麻痺しているとしか考えられないが。
 音楽番組を「生放送する」メリットは何処にあるだろう。
 「この放送は。オーストリア放送協会提供によるテープでお送りしました」とアナウンスされると、「何だ、テープだったのか」と落胆するような音楽ファンなんて、一人もいない。
 番組の中で、「只今。○○さんがホールのお席から、放送席にお戻りになりました」と、女性アナが評論家の移動の実況までするが、音楽を聞き楽しむボクには全く要らないこと。生放送であると言う「臨場感」を伝えたい魂胆であろうな。
 「同時放送だ」「生放送だ」と言っても、所詮、缶詰された音が伝播されて来る。演奏を拾うマイクには固有の歪みや周波数特性があり、集音レベルを調整するため、フォルテは抑えピアニシモでは増幅する、つまり「丸められた音」なのである。電波伝播する送信機器にも機械歪みがあり、聞き手のところにある再生装置もいろいろ。
 コレを「マナだ」「ナマだ」と言って、薄汚い手垢をつけないで欲しい。
 "MAHLER:A Biography"を読みながら、サイモン・ラトルが指揮する、缶詰になったマーラーを聴きましょう。
 
 音の響きのよくないNHKホールで、音楽センスのない音響エンジニアが弄くる、N響の「ナマだ。ナマだ」と言われる放送より、サイモン・ラトルが振るベルリン・フィルの音の方が、よっぽどいい。