昨日、「源氏物語」を音読する集まりに参加した。

 今朝の積雪は5cm。何時までも執拗に雪は降るもんだな、呆れるばかり。
 昨日、6,7人が「源氏物語」の現代語訳を音読する集まりに行って見た。
 訊けば、毎月1回一時間ほどの音読会を5年近く続けておられるそうな。一人1ページから2ページほどを輪読し、1回の集まりで「物語一帖」を読んでいるとか。
 使用しているものは、某女流作家が訳したもので、コレを音読のテキストに選んだ理由を訊ねると、「最も新しい訳なので一番いいだろうと考えた」と。
 順番が廻って来て、ボクは初めてこの源氏物語を声を出して読んだ。ボクは学生の頃に、山岸徳平のものを読んだ記憶があるが、以来半世紀を越える間、読み返したこともなく、久し振りに手に取る「源氏物語」である。
 学生時代、部活で朗読を少しやったものだが、練習もせずいきなりのことであるが大変に読み辛い。句読点の所在が適当でなく、ゴツゴツと息継ぎにも苦労する、悪文の見本のような文章である。
 つまり朗読する文章になっていない。文章にリズムがないのだ。大変失敬なことを言うが、この高名な女流作家には音楽の素養がないと思う。断言してもいい。
 どんな文章も書き手の持つリズム感が表れるものである。テーマにもよるが、文章にそれなりのリズムがあれば、読み手は読み続けられるもの。
 プツンプツンだったり、息を継ぐ間もない長々と続いたり、流れるようなリズムに乗せられない文章には、読む者は草臥れ早々に手放すことになってしまう。
 平安時代の雅やかな世界に繰り広げられる、光源氏の一生と、その一族の人生七十余年を描く物語を、時代考証を違わず原文に忠実にして格調高く、現代人にも分かり易く訳すのは、並の力量ではできないことである。
 辛苦を尽くして訳されたものと考えるが、声に出して読めるような文章ではない。ボクはこの女流作家の作品を読んだことがないので、どんな文章を書く人か知らないが、この訳本を読む限り、名文をお書きになる作家には思えない。
 来月も第2水曜日に開かれるそうだが、どうしたものか思案中である。