ショーペンハウエルの孤独礼賛を、もう少しだけ続けてみましょうか。

 今朝は霰の降る中を、ミシェールと「降りますね、降りますね」と言いながらお決まりの散歩道を歩いた。昼からは雪の降りしきる中をプールへ行って、跳んだり跳ねたり泳いだりしてきた。
 五十肩の痛みが抜けないが、「寒さに負けて堪るか」と、やると決めたことをチャンとやれるから嬉しい。規則正しい毎日がいいのだと思う。碌な物を食っていないが、粗末な食事にも栄養のバランスが摂れていて、それなりに体力の維持に役立っているのでしょう。
 もう10日もすりゃ立春、春はその辺まで来ている。80になって風邪一つ引かずに、独り暮しの冬を過ごせそうじゃないか?!。
 昨日に続いてショーペンハウエルの口説を。
 『若い頃、人間を相手にすることがつくづくイヤになって、孤独の境地に引き込まれたものの、なんとしても孤独の境地の、うら寂しさを長い間には耐え切れなくなる人がいるものだが、そんな人にはこう奨めたい』。 
 『自分の孤独を人の集まりのなかへ持ち込むといい。そして人々のあいだにあっても、自分は孤独であるということを学ぶのである。したがって、自分の考えたことを直ぐに他人には伝えず、他方、他人が言ったことを直ぐそのまま受けとめず、むしろ知的にも道徳的にも他人の発言から、あまり期待しないことである。さらに、他人の意見についても同じような無関心さ身に着けることである』。
 今ボクは、これを実践して確かな手応えを感じている。
 週に2回、1時間15分の間、プールで60を超えた婆さん連中と一緒しているが、婆さん連中は体を動かし来ているのか口を動かしに来ているのか、どちらか判らないほどお喋りをしながらプールの中にいる。 ボクは「よくも飽きずに、くだらないことを喋り続けるものだ」と、なかば呆れて聞いているが、決してそんな顔はしない。かすかに微笑を浮かべながら、聞くとはなしに聞いている振りをしているが、実は殆ど聞いてはいない。
 嬉々とお喋りをしている連中の直ぐ隣りで、ブスッとした爺がいては彼女等のお喋りに水を差すだろうと、心ならずも「面白い話ですね」という顔をして、求められれば相槌を打ったりもするのだ。
 このことは、婆さん連の言うことが余りにも無教養でくだらないからではなく(実際、くだらないアホらしい話なんだが)、ボクが過ごしてきた世界とはまるで違う世界の話で、前後の経緯がわからないと意味不明の話でボクは着いていけないからでもあるが、ボクの孤独の毎日とは似ても似つかぬ別世界のことなので、感情が動かされることもないし意見を挿む気にもならない。ただニンマリと沈黙しているだけである。
 つまり、ショウペンハウエルが言うように、婆さん連中に囲まれていながら、ボクは連中とは没交渉で、孤独な世界の中にいるのである。
 自分と何らかの繋がりのある輪の中におりながら、自分とは無関係な人の中に取り囲まれていると言う、ある種の疎外感を感じることって少なからず経験するところではないでしょうか。大した訓練も要さず、知らないうちに「孤独の極意」に達するということが。
 さすがショウペンハウエルと言うべきでしょうか。