ヴァレリーを読んで、ショパンを聴いて。
何度も書きましたね「チルと言う英語の語感が、秋のひんやりとした冷気を感じさせて、ボクの好きな英語の一つだ」と。今朝など、そのチルという語感そっくりの朝ではなかったですか。
「こんな朝には詩でも読んでみますか」と、本棚に手を伸ばして「ヴァレリー:若きパルク・魅惑」を取り出した。
「魅惑」の中に、『石榴』という短い詩がある。
「石榴」
硬い石榴はひび割れて
実の粒の溢れに譲るー
発見の多さに裂けた
尊い額を見る思い!
石榴は口を開いたー
誇りにさいなまれつつ
耐へとほした日の重みが
ルビーの仕切りを軋ませ
乾いた金の外皮が
力の求めに負けて
紅い宝の滴が散れば
かがやく破裂に思ひ出す
昔の私の魂の
人に知られぬ建築を。
中井久夫訳:みすず書房刊
石榴の神秘的な裂け目に寄せるヴァレリーの感性に、圧倒されそうになりませんか。やっぱりヴァレリーは凄い!
よせばよかったのに、この詩の解説を読んで気分が悪くなった。
「もっとも、この詩は最初エロス的な含みを以って構成されたらしい。石榴に官能的なイメージを重ねることは難しいことではない」。さらに「マラルメの『牧神の午後』に『おれの情熱よ、どの石榴ももう紫に熟し破裂し、蜜蜂がささやくのを君は知る』」と。
石榴に官能的なイメージを感じる!?ボクは文学や音楽の解説を読んだり聞いたりする度に、「ボクはボクの知性で読み、ボクの感性で聴いているので余計なことを言うな」と憤懣を覚えることが多いが、ヴァレリーに変な手垢を着けないでほしい。
先程からCDを掛けながらブログしているが、気分を悪くしているボクを慰めるかのように、心地いい音楽が流れて来た。プレーヤに近付いて見れば「ショパン:チェロ・ソナタ」の第3楽章、デュプレのチェロである。ショパンの優しさとデュプレの技のコラボなんでしょうね。
ボクの後ろでミシェールもショパンを聴いているのか。